彼女は一人だった。 笑いに溢れたこの四天宝寺の中で一人、笑顔をどこかに落としてきたかのような、鉄仮面をかぶっていた。彼女が笑う声を聞いたことがない。上機嫌な言動も見たことがない。ただ不機嫌にも見えない、ただ゛無゛だけが存在するその表情は誰も寄せ付けなかった。 彼女は一人。 まるでそこに君臨する王のように、は孤高だった。 静かな教室。いつもの賑やかなものなど何もない。外を見れば、どっぷりと闇に染まった空だけが見える。 すっかりと日も落ちて、下校時間が近づいている。結局部活に行けなかった。はあ、と嘆息しながらこうなった原因を思い出す。 原因は、そう。 週番だからだ。 だから月に一回開かれる会議に出て、日誌をまとめて、教室を施錠して、カーテンをまとめて、電気を消して、教師に日誌を渡して、帰らなければいけない。 この誰もいなくなった教室で、たった二人、その仕事を任されているのだ。 では何故誰もしゃべらないのか。週番が二人、一緒に仕事をしていれば会話くらい、はずまなくてもあってもいいはずなのに。謙也は目の前でひたすら日誌にシャーペンを滑らせる女を見つめた。 さらり、と長い黒髪。そして落とされている漆黒の瞳。案外、睫毛は長い。肌も綺麗だし、白い。青白い。そしてやはりいつも通り、彼女に表情などなかった。 「……まだ?」 「まだ」 「俺がやるから貸しぃ、待つくらいやったら俺がやる」 ん、と手を差し出しても彼女はこちらをちらりとも見ない。そして当たり前のように返事は無言だった。 「…返事くらいせぇや…」 「なに」 ぼそっと呟くと、瞬間の切り返しで今度は返事がきた。 返事が返ってきたことに驚いて、そしてその返答が少し苛立っていたのに、謙也もなぜかイラっとしてしまう。 何やねん、お前が返事せぇへんのが悪いんやろ。俺がやる言うてるんやから、よこせや。何やコイツ何やコイツ。 自分の中でという少女に対する疑念は膨れ上がるのが分かる。 教室の端で一人だけいる少女。クラスメイトは彼女のことを気にしない。そしてそのことも彼女も気にしない。誰も話しかけないから喋らなくて、誰も笑いかけないから笑わない。 は一人だ。 でも、孤独ではないように見えた。 「嫌なら帰れば」 「…はぁっ?週番やから一緒に残っとるんやろうが、やから俺がやるから貸せ」 「そんな顔して一緒にいたくない」 口元が引き攣る。 何やねん。何やねん。 一体何がしたいねん。 「嫌なら一人で帰れば良かったのよ。誰にも話さないわ」 「何やそれ…」 「なに怒ってるの?怒りたいのはコッチよ」 ボキッ、とシャーシンが折れる音がした。その音に彼女は我に返ったのか、無表情で「やだ、折っちゃった」再びシャーペンをノックする。 ほんのわずかに見えた彼女の怒気はいともたやすく引っ込んだ。 「いつもそんな顔して私のこと睨むの。いい迷惑」 「そんな顔ってどんな顔やねん。つかいつ俺がお前のこと睨んだ?」 「なに、無自覚?」 「そんなに一人でいるのが気に食わないの?」 ボキッ。再び芯が折れる音がした。 どうやら彼女は苛立ったら手に力がこもるようだった。 カチカチ。 これも先ほど聞いた音だ。 青白い彼女の頬が闇に照らされて、少し寒気がした。 「勝手に私のこと解釈して、憐れむの止めてくれる?」 ──あれ。 「…お前、よく喋るんやなぁ」 「いまさら何。こんなに喋ったのは久しぶりよ、悪い?」 「いや、別に。…ああ、なんやなんや、そういうことやな」 「はぁ?」 すとん、と心の中で何かが落ち着いたような気がする。 言われてみればそうかもしれない。自分はのことを見ていた。ずっと見ていた。何故? 異和感があったからだ。 孤高の彼女に何か、ひっかかったからだ。 「お前、小学校とかでは人気者やったやろ」 「……はい?」 「うんうん、せやんなぁ。ちっちゃいころって気ぃ強い子は人気やんな。少々毒吐いてても小学生なら気にしやんし。あと、お前本読むやろ。語彙力あがって毒もアップやもんなぁ。そらあかんわ」 「忍足?」 「謙也でええでー」 「慣れ慣れしい。あなたなんて苗字で十分よ」 「はいはい、謙也な。それ以外やったら振り向かんから」 「呼ぶ機会なんてもうないわよ」 「んん…そんなことはないで」 ぎ、と睨むように眉をつりあげる彼女を見て、今度は何だか笑えてきた。 今まで不思議なくらいに緊張していた表情筋が今度は歯止めを効かないかのように動き出す。 「何よ、にやにや気持ち悪い」 ずばり、と切り捨てた彼女にもう一つ、謙也は笑顔を見せた。 それに詰まったように口を閉ざした彼女にまたまた笑いが止まらない。 「頭うったの、」 そうだ、こいつは孤高なんかじゃない。一人でいるべきではない人だ。 彼女が無表情なのはコレがないからだ。誰も彼女の毒を受け止めきれないからだったんだ。 「ふうん、いや、何でもないで?楽しみが出来たなぁ思て」 「………」 「ほらほらなんか喋りや。口開いてこそなんちゃう?」 「だから慣れ慣れしいって、」 「うん。でもええやろ?っていい名前やもん」 「………」 いきなり顔を俯かせたに謙也は訝しながら首を傾ける。もう一度「ー」と名前を呼べば、詰まったような奇妙な声しか返ってこなかった。 ふと、流れた黒髪から真っ赤な耳が見える。 なんだ、照れてるのか。 「かわええトコあるやん」 「っ!…なんなの!?なんなのなんなの!さっきから!」 「別に。ああそうや、何が気に食わんかったかって?お前の異和感が気に食わんかったんや。静かにしとるなんてタマやないんやろ、ほんまは。だから座っとっても本なんか読まんし教科書も開かん」 「…あんた私のこと見過ぎ」 「やろなぁ。俺も今気付いたわ」 へにゃり、と気の抜けたような笑みに今度こそは耐えきれなくなる。大きな音を立てて転がったのは、椅子だった。 「どした?」 机の上の拳がわなわなと震えているのを見て謙也は楽しげに訊いた。 これだ。これが彼女の感情だ。誰も知らないを、俺だけが見てる。 「なんで怖がらないのよ、私が口悪いって分かってんなら何で喋らせるの!私はあんた見てるとイライラするのよ、何もないくせにへらへらへらへらして!さっきまで怖い顔してたくせに!私のことなんて嫌いだったくせに!なんで今更!」 「?」 「〜〜…っ何で!」 勢いよく顔をあげた彼女の顔は、泣きそうだった。 ──コレや。 始めて見てから何色にも染まらなかった彼女の表情が、怒りや悲しみに包まれてる。そして剥き出しの感情が自分にむかっている。 嬉しい。 胸の鼓動が早すぎて止まらない。 そうだ、これは期待や。 テニスの、40-40のときのような、スリル。 ──俺って性格悪かったんやなぁ。 目の前で泣きそうになってる女子を放って、それを見て嬉しいと思うなんて。 潤んだ瞳で謙也を見下ろすに手を伸ばして、その黒髪を掴んだ。 「お前の怒った顔が、見たかったんや」
本当に性格悪くて苛立たしい。 これからこの子は謙也に振りまわされる運命です。 そして自分の中のSっ気に気付いた謙也くんに振りまわされるテニス部を思うと楽しい。 すいません、私も性格悪かった! |