ずる、と上履き独特の床を擦る音が響く。誰もいなくなった廊下に足を運びながらはすっかり暗くなった学校を進んでいく。すでに下校時刻は過ぎていて、忘れ物に気づいたは態々この長い位廊下を進んでいるというわけだ。暗がりに強くないは胸の前で両手を握りしめながら真っすぐに教室へと向かう。

 やはり教室も真っ暗で明かりなんてついていなかった。 もしもこのドアを開けて、何か、いたら。 ついつい悪いことを考えてしまう頭をぶんぶんと数回振っては数回息を吸って吐いた。 大丈夫、誰もいない。誰も。 は意を決してドアを開く。

 が、そこには一つの影があった。

「ひっ………あ、」

 思わず出た小さな悲鳴をは慌てて口を押さえて閉ざす。その影は動かなかった。はそろり、と忍び足でその影へと近寄った。

 暗闇の中でも淡く輝く、でも闇を落とした薄い金髪。ワックスで固めてあるせいか、机に顔を伏せていてもその髪は立っていた。少しだけその影に近づけば規則正しい寝息が聞こえる。 寝てる。 は目を瞬かせてそっと手を伸ばした。

「…っ」

 その手が金髪に触れる前に、その影がごろりと寝がえりを打った。正確には、顔を背けてこちらを向いたのだ。もちろん瞳は固く閉ざされたままだけれども。

「……謙也、?」

 明るい金髪で、同様に眩しい笑顔。テニスをする姿はとても楽しそう゛だった゛。
 そう、今はもう彼はテニスはしていない。高校へと上がった彼はテニスよりも将来の路を選んだ。゛医者゛になる、と。そのためにテニスに懸けていた時間を全て医術に捧げた。
 高校へ行ってもテニスをするものだと思っていたはその事実に大層驚いた覚えがある。同じ四天宝寺中学から上がってきた。そして他のテニス部は、誰ひとりとして同じ学校に来たものはいない。時々会ってるとは聞いているけれども、やはり知らなかった。
 もともとテニス部員とそこまで親しくなかった。というか最後の1年だけ一緒だった白石・謙也と仲良くなっただけだ。しかも女生徒として、ほんの少しの関わりと言っても良い。

 中学時代の彼らは輝いていた。その眩しさに憧れて、強さに惹かれて。涙を流すその背中に──恋をした。

「……なんで、こんな所に」

 こつん、と机をたたいた。起きる気配はない。
 言っておくと、ここは彼の机でもなければ彼の教室でもない。謙也と同じ学校に来たのはいいが、肝心のクラス分けが相当離れてしまった。加えてが部活に忙しいのと、謙也が早々に塾に行ってしまうことで会う機会すらなかった。

「起きてよ」

 ううん、起きなくてもいい。

「なんで、こんな所にいるのよ」

 さらりとは謙也の髪をひと束掬う。中学の時よりかは大分と落ち着いた色。茶髪に似ているけれども、彼の地毛のあの艶やかな黒髪には程遠かった。

 
ねえ、もう黒髪には戻さないの?
 んーどないしよかなーさすがに大学になったら戻さなあかんかな。
 えーでも私謙也のこの色好きなのにな。
 ふふん。それやったらの為にもうちょっとこの色でいたろかな!
 何でそんなに偉そうなのよ!
 あ、ちょ、痛っ!あ、白石ー!お前もなんとか言ってや!こいつ──


 懐かしい、思い出だ。
 あの時は何の障害もなく彼と話せた。気軽に、後ろを向けば、彼がいた。笑ってくれて、眩しくて、綺麗で、愛しかった。それが高校に入ってすごく遠くなった。
 謙也のあの、輝かしい笑顔がなくなった。いつも何かを我慢してたり、溜めこんでたり。移動教室の時にすれ違っても何も声をかけられなくて、かけることができなくて。

「…ねえ、何でまだその色でいてくれるの?」

 高校に入って、落ち着いたなら、色を戻したらいいのに。
 スピードにまだこだわってるの? テニスはしてるの? 従姉弟は? 後輩はどうなってる? どうして、君は笑っていないの。

 する、と握った髪が指の間からこぼれおちる。細い糸が机に落ち、不意には泣きたくなった。

「そこ、私の席だよ。謙也の席じゃないよ」

 
あーまた私の席座ってる!ちゃんと自分の席があるんだからそっち行ってよ!
 やかましーな。もーちょおっとお淑やかにしやなモテやんで?
 うっさいわ!あほ!あほ謙也!
 繋げるなアホ!ええやん、お前は俺の席に座れば!


 たった一つの違いだったのに。謙也は良くの席に入り浸っていた。そのたびに白石から失笑を買い、アホやなあと笑われていた。その意味が何だったのか、私は知らない。

「……さびしいよ」

 もう一度あの頃に戻れたら、って思う。 それは、ムリな話だけれど。

「どうして話かけてくれないの?何か変わってしまったの?…ねえ、謙也」

 たったちょっとの間だった。でもその僅かな時間が、確かにと謙也の間に溝を作り出して彼らを遠ざけた。それを作ったのはどちらか、それとも環境か時間か。

「謙也、」

 話がしたいの。中学生のあの幼かった、何も考えていなかった、考えなくて良かったあの頃に戻りたい。皆の輪の中で笑ってる、君が見たい。誰か。誰か彼を引っ張り上げてよ。
 だって、彼はあんなに綺麗に笑うのに。

「いかないで」

 いかないで。離れていかないで。さびしい。 傍にいたかったよ。あの時のまま。 ずっと。時が止まればいいと思ってた。 だってそしたら何も変わらなかった。 何も、君も、私も。

 進まなくても良かった。進みたく、なかった。 傍で笑いあいたかっただけなの。

 わざわざ進学校に、合格が危うかったは死にもの狂いで勉強をした。合格基準に満たしてない、って担任から苦い顔をされても、諦めなかった。諦めたくなかった。だって、高校になっても彼が彼のまま、笑っていると思ったから。
 頑張れ、って言ってくれたあの言葉で合格したようなものだ。

 時は人を変える。 良いことにも、悪いことにも。

「謙也。変わったなら、なんでこんな所で寝てるの。なんで髪色変えないの」

 高校に入ってから1年の半分が過ぎた。今更。ここに。この場所に、私のところに。
 どうして、忘れようとしてた私に、残酷すぎる貴方は、戻ってきたの。


「──バカ、好きだよ、バカ。バカ謙也」


 どれだけ時間が変わろうと。君が変わろうと。周りが空気が変わろうと。これだけは変わらない。変われなかった。変えることが出来なかった。

 これだけ音を立てても寝息一つ変わらずに寝続ける謙也には泣きそうな顔で笑って、俯いた。もう声は届かない。知ってた、のに。は不意にこぼれおちる滴に気づく。頬をつう、となめらかに雫が落ちていった。

「やだ、なんで、泣いて、」

 ぽたん、と雫が机の上に落ちる。

「……え?」

 涙が落ちた場所の、少し上。謙也の顔の斜め上。何かが書いてある文字には顔を近づけた。
 細い、薄いシャーペンで何かが書きつづられてある。いや、そんなに量はなかった。たった一言。

「……っ!」

 謙也の手に握られていたシャーペンに、そっと手を触れる。この書き方は、少し独特な走り書き。けれども決して汚くない。この字は紛れもなく彼の字で。そしてその文字はある言葉を綴っていた。

「 好きや 」

 大きいとも小さいでもない。本当に薄くて、恐らく今この時に気づいていなかったらは一生それに気づかなかっただろう。それくらい、目立たなかった。

「書き逃げは、逃げなきゃ意味ないってば」

 ぽたん、と雫が落ちる。今度は、先ほどの冷たい雫ではなく、暖かい、心が溢れたような涙だった。
 君の声で、それを聞かせてよ。

「謙也、起きて」

 はそっと記憶よりも逞しくなった肩をゆすった。





机上の落書き
変わらない君でいて





「素直に/なれなくて」を見た後に突発的に書いたものです。主題歌の曲を聴いていたらこうなりました。少し切なくて、でもやっぱり最後は甘い。やっと短編で謙也くんが報われた気がする。起きてないけど。
謙也くんはやっぱり好き!愛しさがこみあげました。再確認。
謙也好きがもっと増えて!彼の魅力を伝えようと、今日も私は必死です。笑。



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